浅石家の家紋と分布

浅石家の家紋の種類は私が確認できたところでは現在、8種類の家紋があります



明治時代(家紋の歴史)

 
すべての家が家紋を所有
 長く続いた封建時代が幕を閉じ、一般庶民に苗字や家紋の使用が許されるなど、明治時代は日本の様相を一変します。
 それまで「自家の苗字や家紋」を持てなかった多くの人々は、歴史の抑圧から解放されたことを喜び合ったことでしょう。時代背景の紆余曲折は色々とあったことと思いますが、この時代に家紋を定めた家々にとって、純粋に新しい時代の幕開けとして受け止められたのではないでしょうか。
 
家紋の地域性
 新しく定める家紋には、その家に伝わる男紋をそのまま用いたり、地域の城主や名士が使用していた家紋をそのまま(あるいは少し変形して)用いることが多かったようです。
 もともと男紋も地域の城主や名士にあやかって定められることが多かったようですので、国内に分布する家紋の種類に地域性があることと無縁ではないように思います。
 以後、人々が自由に移転し、現在の家紋の分布は非常に複雑なものになっています。
 
女紋
 女性が一般的に紋章を用いるようになったのもこの頃からです。女性が用いる紋を女紋と言いますが、女紋はその家の男紋にちなんで定められることが多く、男紋の「丸」(注1)を取ったものが女紋というご家庭が比較的多いのはそのためだと考えられます。しかし、男紋とは全く別のデザインを女紋に定めることもあり、この場合は、女性らしい柔らかい形の紋が選ばれたようです。
 こうして明治時代に、すべてのご家庭が等しく定紋(家紋)を所有し、現在の家紋事情と大きく変わらない情況が出来上がりました。
(注1)男紋の「丸」は、領土を表すという説があります。
 
ちょっと気になる我が家のルーツ
 ちょっと気になる我が家のルーツですが、現在ご使用の家紋を辿ると明治時代に端を発するお宅が多いのも現実です。




江戸時代(家紋の歴史)

 
 
武家社会の中で格式化
 戦乱が平定され、徳川の安定期になると、家紋はもっぱら権威の象徴として用いられるようになりました。全国を統治する必要性から、家紋は諸大名の代名詞として格式化されていったと考えられています。徳川家三葵(俗に言う「葵の紋所」)の前にひれ伏す光景はお馴染みです。
 儀礼的な意味合いも強まり、その大きさやスタイルなどが定められていきました。
 
紋帳
 参勤交代が制定されると、各地の諸大名の家紋を知ることは、公務上必須の課題となってきたようです。江戸城内ではもちろんのこと、例えば、大名行列の先払(さきばらい)には諸大名の家紋に精通した者を配置し、道中で他の大名と出会った時など、適切な礼儀作法を取らなければ大変なことが起こる時代であったことは皆さんご承知の通りです。
 この頃、これらの大名の家紋をまとめた書物が刊行され、後の紋帳の原型になったと言われています。
 
元禄文化に花開く
 元禄時代、町民文化が花開く頃、家紋は庶民に開放され、芸能文化などの広がりと共にそのデザインが一気に多様化したと言われています。役者は洒落心たっぷりの紋で舞躍り、遊女も好んで紋を付け、庶民は好みの紋を選び、上絵師(家紋を専門に描く職人)は自在に形を変えた紋を世の中に送り出し、家紋で溢れるお江戸の街で人々はその美しさを競い合ったようです。
 こうして家紋は、世界に類を見ない優れたデザイン群を形成していきます。
 
男紋・女紋
 家紋には、家を表す定紋(じょうもん)と男紋(おとこもん)・女紋(おんなもん)があります(注1)が、江戸時代中期頃から、男紋が一般的に使われだしたようです。男性の多くは、その地域の城主や名士にあやかって、自分の紋章を定め用いたと言われています。
 元禄時代以降、武家の女性たちを中心に婦人専用の紋章を定め、用いるようになったと言われています。一般に女性が紋章を使えるようになったのは、明治時代以降のことです。
(注1)替紋(かえもん)は、少し意味合いが異なります。




戦国時代(家紋の歴史)

 
武家の台頭
 平安時代の貴族(公卿家)たちが用いていた家紋(注1)を模して、当時の武家も独自の「マーク」を使い出したようです。
(注1)当時の家紋は、家(家柄)の象徴として格式化された意味合いは薄かったようです。
 
戦場での目印として
 現代のようにハイテク情報機器などなかった時代です。戦地での混乱を避けるため、敵味方を見分けるための目印は大変重要な役割を持っていました。
 現実的な必要性から、よりシンプルで一目で判別しやすいデザインの「マーク」を用いる武将が多かったようです。他に、戦勝にあやかったものや、めでたい図柄をモチーフにしたものも多く用いられました。
 
家紋の広がり
 戦(いくさ)に明け暮れたこの時代、戦火の広がりと共に、家紋は全国に広がっていったようです。
 戦国時代初期の頃には陣幕の色などで判別していたようですが、各地で豪族や武家が割拠し、群雄入り乱れての合戦が繰り広げられるようになると、自家を宣揚するための証に家紋が用いられ、その種類もたちまち数を増やしていったようです。
 
家紋の権威
 家紋は一軍を率いる者の証です。戦(いくさ)で功労のあった者に褒美として家紋を与える風習もでてきたようです。秀吉が苗字と「桐紋」を賜った話しは有名です。


家   紋 解       説         使用されている諸家の解説
丸に隅立四目結紋 まるにすみたてよつめゆいもん
目結とは「絞り染め」の一種で染め残ったところに目のような
模様ができることによる。目結の数により多種だが四目結紋
が主力で特に四十五度角に立つ「隅立四目結紋」は佐々木
さんの代表紋とされている。
秋田県鹿角市八幡平玉内地区に多く分布し、総本家の浅石助右ヱ門
や助十郎から分家した浅石がこの家紋を使用している。
一戸南部氏の分れで中村・長牛・谷内・などがこの家紋である。



丸に横木瓜紋 まるによこもっこもん
バラ科の木瓜(ぼけ)や胡瓜の切り口に似ているので木瓜の
漢字を使うが、実は中国渡来の模様で平安王朝の人たちに
好まれた。公卿の徳大寺氏が家紋に使い後に朝倉・工藤ほ
か武士達にも広まった。






丸に蔦紋 まるにつたもん
植物の蔦は繁殖力が旺盛で成長性に富む。江戸時代には
大名から芸妓にまで広まった。今でも日本人の使う家紋ベス
ト5に入る。形は葉に刻みのある鬼蔦などの輪郭で囲むもの
などある。






丸に片喰紋 まるにかたばみもん
カタバミは片葉が三つあるので名付けられ漢字は片喰・酢漿
草(かたばみ)と書く。繁殖力が強いので子孫繁栄を願って
家紋になったといわれるが、江戸時代は大名の酒井家から
庶民まで広く分布した。
津軽の大浦為信に滅ぼされた浅石城は、まだ幼い十二代政俊を母親が
わづかの家来に守られ、三戸の南部公を頼って落ちのび、三戸に永住す
するようになった。三戸に落ちてからは、津軽家の追撃を逃れる為、家紋
も「花菱」から丸に片喰に変え、また、姓も中嶋を名乗り、隠遁生活を余儀
なくされた。浅石姓を名乗りはじめたのは、明治維新前後の頃で明治新姓
を機会に改姓したと思われる。